走馬灯  ①

この頃 やたら過去の出来事が

走馬灯のように 夢に出て来る私。

いよいよ人生も、

終盤?なのでしょうか。

人生の終わりが近づくと 

そういうものを見ると言いますから。



岐阜の田舎の女の子

岐阜の田舎で生まれ、その地で育った私。

親もコテコテの岐阜人。

どんな家庭に産まれ、

どんな親に育てられるか?

それは、子どもにとって、

なんともならない大きな宿命でもある。

一族は殆どが岐阜から離れた事も

無い人ばかり。

私の小さな頃のお話。 

 

狭い田舎町で、

本を読むのが好きで

少々真面目なだけ。

井の中の蛙。

特に際立った才能も無し。

なのに チヤホヤされて全くの勘違い。

周囲がそれだけ余裕が無かった時代。

そんな環境での勘違いの女の子。

当時 ソファに座ってTVを見るとか、

( 当時 早めに購入したTV 
 電気製品オタクの父親は
 何でも 早めに買い揃えて居た。)

食事はテーブル 椅子で、

バターを塗ったパンとコーヒー、

ハムと目玉焼き。

( なんとも・・・野菜不足な食卓ですね)

他所は ちゃぶ台に、お漬物の時代ですから、

当然 勘違いもするでしょう。

今でも小学校の同窓会へ行くと同級生は

「 あなたの家は オシャレだった!

 パンを食べて居たから別格だと思って居た」と。

 

今じゃ 田んぼを耕して居たお家の方が

お金持ち? 土地成金?そういう時代です。

 

私の家庭は 

その頃 堅い会社に勤める

サラリーマンが少ない時代だったから 

( 戦後、まだ日本は貧しかった! )

毎月 お給料が入る家は裕福な家?

大きな料理旅館の次男坊だったが、

あとを取るのは長男と決まって居るので、

次男坊は自由な身。

自室に引き籠り、当時としては最先端?

ラジオの製作、電気蓄音機(今で言うプレイヤー)

の製作、発電機・・電気湯沸かし器?

おかしな実験に 毎日~

明け暮れる少年だったようだ。

部屋には 映画俳優のプロマイド。

近所の少年たちにラジオ作りの指導をしていた。

たまたま器用で~

電気系統の技術を持って居た彼は

戦争中も戦後も仕事上 随分重宝された。

(オタクの出番?)

 

自分の意志が無い?

おとなしいひきこもりタイプ。

頭は良いが自己表現力ゼロ!

商家の次男で乳母日傘で育った人。

やり手の忙しい母親に育てられずに

乳母に育てられた結果、乳母を慕う人。

無口な乳母は、彼に社会性は

教えられなかった。

電気系統の勉強が好きで

岐阜の工業高校で学ぶ。(笠松工業、のちの岐阜工業) 

当時としては珍しい進学。

電気の専門をさらに学びたいと

東京の無線学校で学んだりして、

かなり電気の部門の専門家。

其処での学生運動(学費値上げ反対)

をとがめられ 故郷に引き戻され、

無難な農業専門の高校も卒業。

当時は 農業が花形。

学校を幾つ制覇したの? 

その後、再び大阪に住んで

( 当時としては 

  東京暮らしをしたり

  大阪暮らしをしたりして、

  かなりの自由人? 

  お金にも不自由は無かったようだ。)

未だ出来たばかりの

大阪の早川電機に就職して

(今のシャープの前身)

働いて居たのだが、

美しい宝塚女優の足に憧れて?

毎週、休みの度に劇場通い?

今ならさしずめ追っかけ小僧?

戦争が激しくなり親に故郷に戻されたり

その後、兵役で南方前線に配置された。

主に通信兵として活躍したようだ。

( その時の武勇伝だけは

  よく聞いたものだ!)

インパール作戦に突入しようとして居た矢先、

その途中で幸い?病を患い、日本に帰還。

インパールに参加して居たら 

今頃「ビルマの竪琴」私は居ない存在だ。

そのまま 男が少ない戦争中に

親に勧められるままに、母と結婚。

親の言うなりに

田舎の娘(母)と結婚した。

技術を生かして飛行機の会社

( 川崎重工 )に勤めたり、

母方の父親の勧めで地元の新聞社に

勤めたりした。

不景気時代でも技術を持つものは強い。

考えてみれば 親の言う路線のまま?

そんな両親の元、私は長女として生まれた。

戦後の生まれだ!

 

子ども時代少しばかりお勉強なるものが

出来ても、大したことではない。

本当に頭が良い人は やることが違うのだから。

私は そんな方の足元にも及ばない。

周囲の条件が悪過ぎるから、

( 戦争で父親が亡くなったとか、

  田畑を持つ家も収穫量は悪く、

  せいぜい収穫量も反当り4俵~5俵か?

  現金収入は 秋だけ 

  その頃は 天災も多く 

  水害で収穫ゼロの年も・・・ 

  今の時代のような土地成金は

  未だ居ない。 )

たまたま 安定した職業の我が家は

少し目立っただけ。

その頃は田舎の町から 

電車に乗って岐阜の街へ行く事、

そんな事が 一種のステータス?

月に一回 岐阜で家族そろって食事をし、

その後 流行りの「 映画 」を見て 

買い物をして帰宅する。

岐阜と言う小さな土地の中で 

すべて終わって居た毎日。

小中の成績の良い者だけが 

岐阜の高校に通うという、

これもステータス。

昭和30年代の思い出。

つまらないちっぽけなエリート気分?

まったくの勘違い。

そんな井の中の蛙のような毎日しか 

私は知らなかった。

バカだったなぁ~。

とにかく世界が狭過ぎる。

岐阜が日本の中心だと思って居た。

田舎者だった私。

地図を広げて

岐阜は日本のほぼ真ん中になる!

そんな無知で馬鹿な少女だった。

 

 

雑誌の中で見る東京とかアメリカは

遠い~遠い夢の世界であった。

その時代にもちゃんと

東京生活をしていた人たちは居たんだ!

とにかく 当時は 

地方と東京の格差は大きかったなぁ~!

文化も教育も言語も 経済も・・・

格差ありだった!

中途半端な考え方の私。

結局 何も出来ないままに

人生を終えようとして居る。

もう少し真剣に学び 

地域を飛び出る勇気が在る子だったら・・・。



十分に学力があり、経済的にも恵まれ、

いざ東京の大学を志したとしても、

田舎の子供にはさらなる障壁が

いくつも立ちはだかって居た。

思いつくままに羅列してみよう。

○「行くなら県内の大学に行ってほしい」

 と、希望する親 なぜなら 通えるから。

 普通なら 高校を卒業して しばらく働いて 

 何処かへ嫁に行くのが 女の宿命?

 そんな中 進学するなんて・・・

 と、いう無理解。

 地元の大学出さえ 行かせてやる!

 と、いう親の気持ち。

 子は親の所有物?

 遠慮しながら?の進学だった。

 県内には 

 あまり魅力の在る大学など無かった。

 別に学びたくも無い【 教育学部 】

 私には その学びは合わなかった。


○「女性は大学・都会になど行くべきでない」

 と、いう根強い価値感

 女性が都会で一人暮らしなど危険きわまりなし。

 悪い人に狙われてしまう。

 そういう心配が在るから。


○受験に対する精神的な負担 & 経済的な負担

(多くの人は飛行機に乗ったことも

 大都市に行ったこともない。

 そう言う時代だったから。)

 新幹線ですら私は大学時代の旅で やっと乗った。

 飛行機など 新婚旅行で九州への旅が初!


○都会での大学生活について相談できる大人の不在

 とにかく周囲に理解者が 居なかった。

 すぐ下に弟が居た事も大きい。

 弟は 当然 男。 

 男が 大学へ行くのならば、

 親は 随分 協力的。

 あきらかに 其処に存在するのは

 【 男女差別 】だった。

 あろうことか、私をまるで 女中のごとく 

 弟の生活を面倒を見る為に 名古屋へ。

 私は やむを得ず名古屋で就職した。

 なんで? 弟の面倒を見なくてはならないの?

 とにかく 親の言う通り 素直に聞いてしまう

 意志の弱い私だった。情けない。

 この時だって 

 私は 東京へ行きたかったのに・・・。

 私には【 自由 】が無かったのかも知れない。


 すべて、私の弱い意志のゆえ

 流れて来た人生なのかも知れない。


 子を持ち せめて子供には自由を与えたかった。

 やりたい事をさせて来た。

 そして 自由を与えた。

 子供たちは 飛んだ!

 自由に飛んだ!


 思うに 親の存在は 弱い程良い。

 親の存在は 軽い方が良い。

 強過ぎる親からの束縛。

 親に良い顔をする 偽りの自分。

 良い子 良い娘を演じなくて良いのに。


 今 私は・・・

 息子たちにとって とても 弱い母。

 それで 良いのだ。

 子の負担にならないように

 生きていきたいと、願って居る。


 何を思い出して・・・

 何を後悔して居るのか?

 つまらない? わけの解らぬ走馬灯。

 グルグルめぐる。

 人生にやり直しは 効かないが・・・

 弱さをさらけ出し、同類と慰め合い?

 自分の考え方は 人には押し付けず、

 ありのままで 自由に生きれば良いのだ。